「時々書くかもしれないメモ」略称「時々メモ」です。


02・12・17 納期

 昔むかし、私がデザイン会社にいた頃、取り引き先に「A社」「B社」という写植屋さんがありました。
無理を言って、急ぎの仕事もよくお願いしました。

 その仕事の納期について「A社」さんに尋ねると「1時間でやります。」と言ってくれるのです。(1時間というのは例えばの例ですが)しかし、実際には「1時間半位」かかる事が多かったように思います。
 同じ程度の仕事を「B社」さんに尋ねると、「2時間位かかります」というのです。しかし、実際には大抵、時間内に、「1時間半位」で納品してくれました。

 そのように、同じ1時間半位の仕事なのですが、「A社」さんは、どんなに時間に追われ、「B社」さんはどんなに余裕をもって、仕事をした事でしょう。そして、対外的にも、「B社」さんは時間内で納品してくれたという印象が残るのです。

 私は完全に「A社」さんタイプです。(笑)言い訳のようになりますが、相手の希望に添いたいという気持ちが先行して、つい言ってしまうのですよね。

 ちなみに、私は「A社」さんも「B社」さんも大好きでした。お世話になりました。



02・11・25 「茶太郎」

 ただいま制作中の書体「茶太郎」は、下書きもなく、白い紙にいきなり墨で直に描いた文字を原字にしています。(今は漢字の原字を制作中です)
 一文字しか描かなかった文字もあれば、10文字くらい描いた文字もあります。その10文字には、ひとつとして同じものはなく、すべて違う形をしています。一文字でさえそうなのですから、仮に「あ行」から始めたとしたら、「ら行」あたりでは、雰囲気が全然ちがうという事になる可能性があります。
 この書体の課題は、いかに同じ調子を保てるかということかもしれません。文字数が少なければ、なるべく短時間で、一気に描くというのがいいと思いますが、とにかく文字数が多いですからね〜。どうなる事やら・・・


02・11・12 はるか先

 次の書体は骨格からデザインする文字ではなく、紙に書いて偶然できた文字を原字にして、作る予定です。
 偶然といっても、自分の字形感覚の範囲であり、それを越える事はできないのですけど・・・
 完成予定ははるか先です。ひらがなからボチボチ始める事にいたします。


02・11・5 「豆の助」

 かな書体「豆の助」ができました。「豆太郎」の漢字と組んでつかえるようウエイトや雰囲気を合わせて作りました。書体の場合、「ここで完成」というラインはひきにくく、気持ちの上でいつまでも尾をひく感覚が残ります。
 時間がたてば目が冷静になって直したいところがでてくるかもしれません。その時はまた手を加える事にいたします。
 「ご試用ください(豆太郎)」のページと同じく、「ご試用ください(豆の助)」のページもそのうち作りたいと思っております。どうぞ今後とも、「豆太郎」ともども「豆の助」をよろしくおねがいいたします。


02・10・7 「かな」(2)

 「かな」の試作をしています。

 ひらがなは、全文字をながめたところ、黒みはほぼ均一に見えるようになりました。そして、手前に飛び出して見える(他の文字と同化していない)数文字を修正し、だいたい一つの面として、平らに見えるところまで出来ました。

 ところが、カタカナでつまずいています。ひらがなの2倍位の時間をかけているのですが・・・。どうなることやら・・・


02・9・23 「かな」(1)

 さわやかな季節になりましたね。お変わりありませんか。

 「豆太郎」の漢字と組める「かな」の制作を試みているのですが・・・。

 楽しくて、遊んだ文字にしたいという希望はあるのですが、難しくて、どうも、あまり遊んだ文字になりません。完成するかどうか自分でも判りませんが、もう少し、試行錯誤してみたいと思います。


02・9・11 「貴乃花」

「文字」の話ではありませんが、ちょっと「お相撲」の事を書きたいと思います。

(9月9日記)
 「大相撲秋場所」が始まりました。ひざのケガで1年以上、連続休場していた「貴乃花」が、進退をかけて、今場所出場しています。もう少しケガの回復を待ってあげればいいものを、ケガが治っていない「貴乃花」に「引退か」「出場か」を迫った相撲協会の判断に少し疑問を感じます。ケガを直してまた土俵に立ちたい力士に対し、ケガが回復しないまま強引に出場させて、結果を出さなければ引退に追い込むなどという事はぜひ改めていただきたいと思います。先場所は史上最多の休場者がいました。「北の海理事長」はその対策について「親方と力士の自覚」という事をいいましたが、お相撲さんをもっと休ませてあげるとか(年6場所の他に地方巡業などある)ケガをした力士には治療に必要なだけの公傷期間を保証してあげるとか、もっと具体的にお相撲さんの健康について考えてほしいと思います。

 初日、恒例の「協会ご挨拶」のあと「貴乃花」が土俵の感触を確かめるように両の足の裏で土俵をなでながら去った姿が印象的でした。初日は「貴乃花」が勝ちました。強かった頃の「貴乃花」の相撲とは違う「もたつき」のようなものを感じました。そして「高見盛」を押し出したあと左足が大きく一歩後ろに残っていたのが気になりました。アナウンサーもその事を、解説の親方に尋ねていましたが、それは問題ないとの事でした。

 
 二日目の今日は仕切りの時からひざを少し曲げぎみにして足の運びも小さく、素人目にも、ひざの不調を感じました。結果は黒星でした。この先、なんて長い、残り13日間でしょう。

 連続休場に入るまえの最後の、あの有名な一番はその後何度もテレビで放映されました。ケガをした足はほとんど地面(土俵)につけられず、一本足で相撲を取ったといっても過言ではありません。そして武蔵丸をやぶった時、瞬間みせた「金剛力士像」のようなすごい形相。これも繰り返し放映されました。感動的なシーンでした。そして見事優勝をはたしましたが、それと引き換えにひざのケガが深刻になりました。

 その時に、感動した人たちが今度は一転して「こんなに長い休場は許されない」とか「結論をだしたらどうか」とか「こんなに長く休む事に批判的なファンもいる」とか・・・。あのですね〜、私みたいに貴乃花のファンじゃなくても、もっと完全に回復するまで待ってあげてほしいと思ってるんですよ〜。

 そういえば前「魁皇」が言っていました。「ファンは、ありがたいけど恐い」と。魁皇の地元の「九州場所」では魁皇に大きな声援が送られますが、結果が悪いと「ばかやろう!」とか「もう、九州に帰ってくるな!」とかヤジが飛ぶのだそうです。

 「かわいさ余って憎さ百倍」のファン心理はそれとして、「相撲協会」はもっと力士を大事にしてほしいと思います。


02・8・30 集中の途切れ 

 そうですか。M社の国際タイプフェイスコンテストが間もなく締めきりなのですね。今回が最後・・・ですか。どのような書体が誕生(受賞)するのでしょうね。今から楽しみです。

 「豆太郎」の制作は今はちょっと集中が途切れています。原字を描く事から始めた頃は、寝る間も惜しんで、寝ても覚めても「豆太郎」だったのです。本当に・・・
 今は原字は描かないで、モニターの画面で制作し、プリントアウトで結果確認という繰り返しなのですが、これが長時間もたないのです。原字を描いていた頃の方が大変でしたけど生き生きしてました。(紙に筆で描いていた昔をいつまでも懐かしがっていてもしかたありませんが・・・)


02・7・31 「超明朝作成パーツセット」

 柿模爺さんのサイトで「超明朝作成パーツセット」を無償配付しています。(8月末まで限定)
「トゲっち」「カクっち」「トロっち」の三種類のバリエーションのパーツがあります。
 パーツを組み合わせて明朝体がつくれます。


02・7・12 昔の文字と今の文字

 今から29年ほど前、私は今の仕事を志していましたが、まだ希望の仕事に就けなくてバイトで事務職のような事をしていました。レタリングの仕事をしたくても「女性ではちょっと・・・」などという言葉が通っていた時代でした。
 私がレタリングの仕事をしたい事を知っていた知人が、週1回発行している、ある小さな新聞社におりまして、その頃、まだ全くの素人であった私にレタリングを描かせてくれたのです。わずかな期間(知人が退社するまで)でしたがいくつか描かせていただきました。
 その中で一つだけ、29年たった今でもつかわれている連載のコラムの見出しがあります。「すごく下手で」「すごく一生懸命な」小さな見出し文字です。おっかなびっくり引いた線は少しガタガタしています。ハネやハライの先はシャープに尖らなくて墨がぼたついています。新聞社の編集室の机を借りて3時間くらいかけて一生懸命に描いたのを昨日の事のように思い出します。
 その後、その新聞とは15年ほど離れていましたが、ここ十何年か再びこの新聞に時々描いています。同じ紙面にそのなつかしいコラムの見出しと今現在の見出し文字が同時に載っているのです。
 29年の間、編集者も編集長も何代も替わった事でしょう。しかし、そのつたない連載用の文字は不思議と使い続けられて来ました。
 これまで、この新聞の編集の方にはお会いする機会もなく現在に至っております。


02・6・27 筆を切る

 私がいた職場ではゴシック筆を切って使っていました。筆の穂の断面は丸いのですが、筆を新しくおろす時、まず穂を水でぬらします。そして穂の根元を親指と人さし指ではさみ穂先に向かって指を滑らせます。そして筆を机の上におくのですが、この時へん平になった面を上にむけるようにします。そして新しいカッターの刃(あまり刃の先端でない方がよい)を穂のねもとから1ミリ位のところに垂直に当て、少し切り込みを入れ刃をそのまま穂先の方にずらすと、断面でいうとかまぼこのかたちに穂が削り取られる訳です。そして筆をころがしその裏側も同じようにします。次に穂先の毛を揃えるようにほんの少々押し切り、平筆のような形にするのです。
 このようにして筆を三ケ所切って使っていました。初めの頃この、筆を切るという事がなかなか出来なくて先輩達に切ってもらっていました。しかしそのうち出来るようになり、その後あたりまえのように筆を切って使っておりました。
 ある日のこと、いつものように筆を切っていると、時々、職場に筆を売りにくる筆職人のおじさんが来ました。「なんで筆を切るのよおー、そのまま使えるようにちゃんと作ってあるんだよー」筆作りの職人であるおじさんの声は悲鳴に近いものがありました。
 筆を切ることはあたりまえのような日常だったので、私は少しびっくりしました。しかしその後も長らく筆を切っていたのですが、ある時そのまま使ってみたのです。全く問題がないばかりでなく、切らない分むしろコシがあるのです。筆を切るのは、線の両端、つまり描き始めと描き終わりの部分を整えるためのようですが、私は両端にはこだわらずコシの強さ優先で、切らない筆を使うようになりました。


02・6・8 明朝体 

 昨日は一本の明朝体に四苦八苦しました。書体指定のないものを明朝体で描くことはあまりありませんが、明朝体の指定がされていたのです。明朝体はもともと不得手といえますが、ここ数年は、文字の骨格がすっかり「豆太郎」になっていて、ますます明朝体が描きにくいのです。「豆太郎」の骨格は、明朝体にはフトコロが広すぎます。

 そうそう「豆太郎」は明朝とゴシックの中間とよく言われますが、制作する立場で言いますと中間ではなく、ずっとゴシック寄りなのです。


02・5・26 おばあちゃんの「書」

しばらく前のお話になりますが、NHKの番組で、ある100歳近いおばあちゃんとその家族が出た番組がありました。
 そのおばあちゃんは、ずっと字が書けなかったのですが、子供や孫に教わって字を覚えたそうです。そしてお習字もはじめました。
 そのおばあちゃんが書いた二つの筆文字 

    「はたけ」  「たのしい」

「はたけ」という字はのんびりと素朴で、おっとりとしてのどかで、「たのしい」という字はみているだけで頬がゆるんでしまうたのしさなのです。おばあちゃんの書いた文字の味わいや魅力を言葉で表現できないのが残念です。
 意味を伝えるという文字の役割をこえて、土の感触やのどかな風景、ウキウキした心までが表現されたおばあちゃんの「書」は芸術だと思いました。


02・5・21 裏と表

 前回、子供のころ習字教室に通っていたものの、筆文字が身につかなかったという事をお話ししました。
 しかし、この教室で、ひとつだけ身についた習慣があります。それは、紙の「表」に書くという事です。仕事で使う紙に限らず、紙の裏と表を無意識のうちに確かめるクセは、たぶんその頃身についたものだと思います。
 昔、職場にゴシック体のうまいTさんという先輩がいたのですが、この先輩の、ごくまれにある失敗のひとつが、レタリングを紙の裏と表に描いてしまうという事です。その2本のレタリングは納品先がそれぞれ違っていたりするのです。今とちがって、その頃は、描いた原字そのものが商品でしたので、これには先輩も困った事でしょう。私も数々の数えきれない失敗をしましたが、幸いな事に前記のようなわけで、その失敗だけはありませんでした。


02・5・18 習字教室

 子供の頃、小学校2年生から「習字教室」に通っていました。それは小さな教室です。M先生は教室に電車で通って来ていました。その先生が「駅弁」を買ってきて時々お昼に食べたりするのですが、私には、お習字などよりもその「駅弁」の方がずっと、ずっとうらやましく、気になったものです。
 そのM先生が、病気のため教室を閉じるまでの間、週一回せっせと通っていました。教室が閉じたのは私が5年生の時です。お習字が、決して楽しかったり、好きだった訳ではないのですが、止めるとか、休むとか、さぼるとかという事は思い付きもしなかったのです。ただ、教室に漂う墨の香りは好きでした。
 そのM先生がどういう字を誉めてくれるかというと「元気のよい字」なのです。その事が子供心にわかっていましたので、一生懸命、元気よさそうに書いた事を覚えています。紙から字がはみだしたりしていると誉めてくれるのです。字の形にはあまりこだわらない先生でした。だからというと先生に申し訳ありませんが、今も筆の文字が苦手です。
 中学に入ってから、M先生のお弟子さんの女性が「かな」の教室をはじめたのでちょっとだけ行きましたが、その頃には、止めるとか、休むとか、さぼるとかという事も覚えまして、結局、長続きしませんでした。
 お習字はちっともうまくなりませんでしたが、このころの経験が文字を身近に感じる事になり、今の仕事につながったといえるかもしれません。


02・5・15 苦手な文字

 たくさんある文字の中には、比較的苦手な文字がいくつかあります。ひらがなでいうと「そ、ふ、み、む、れ」などですし、カタカナでいうと「ソ、チ、ホ」などです。又、漢字でいうと「案、今、考、多、名、・・・」などがあります。考えてみれば、これまで繰り返し何度も描いているはずなのですが・・・。いろいろ修正してみるもののなかなか形が決まりません。あれこれと手を加えれば加えるほど、目が客観性を失ってゆき、こうなったら手を止めて、ちょっと休憩でもした方がいいようです。字種によっては180度ひっくり返し、天地を逆にしてみると、原因が見える文字もあります。左右対称の骨格を持った文字、又、2つの文字が縦に並んでできた漢字などの場合は、センターのズレが発見できたりします。又あれこれ修正を繰り返している内に、ちょっとした事で形が決まることがあります。格闘していた「文字の違和感」がスッと消える瞬間です。この瞬間の感覚を探し求めて手を加え続けている訳です。しかし、うまくいかない時はしばらく文字を寝かせておきます。(時間に余裕のある仕事の場合に限りますが・・・)改めて新しい目で見てみると割と容易に原因が見える事があります。


02・5・11 チーコの思い出

前回は、子供のころ飼っていた「犬」の思い出を書きました。
今回は、子供のころ飼っていた「猫」の思い出を書きます。


 私が小学生だった頃、うちでチーコという猫を飼っていた。
何年くらい飼ったのか、どこかでもらったのか、それとも拾ったのか、くわしい事はわからない。
 猫好きで有名な作家A氏の話によると猫には、狩りをする猫とそうでない猫がいるらしい。チーコは狩りをする猫だった。ネズミも取った。小さな弱った「きしりネズミ」を手でお手玉のようにして遊んでいるチーコをときどき見た。又、かまきりとかトカゲとかも取ってきて、時々とんでもない所に置いてあるので、この類の小さい生き物が苦手な私は何回も悲鳴をあげることになった。ちゃぶ台の、私がすわる所にお腹をむけてひっくり返った死んだトカゲがいたりした。
 私はチーコが大好きだった。夜はいつもチーコといっしょに寝た。だっこするとチーコはぽかぽかと暖かかった。
 ある日チーコはうちに帰ってこなかった。朝起きても布団の中にチーコはいなかった。次の日も、その又次の日もチーコは帰ってこなかった。そしてずっと帰ってこなくなった。チーコはどこかへ行ってしまったんだなと思い、少しづつチーコの事を忘れかけていたある日、近所でノラ猫の集団を見た。どの猫もドブ色に汚れており、ノラ猫特有のスゴミがあり、やせていて、ノラ猫のぐれん隊といった感じの集団だった。その中にチーコがいた。私はなつかしさで胸がいっぱいになった。チ−コを見た。チーコも私を見た。私とチーコはしばらく顔を見合わせていた。だけどチーコは他のノラ猫と共にどこかへ行ってしまった。 その後、二度とチーコに会う事はなかった。


02・5・7 テルの思い出

 書体デザイナーのSさんが、サイトで発表された5月6日の日記を読ませていただきました。子供心がとても生き生きと伝わってきて、心に残るいいお話でした。
 その日記に刺激され、私も子供の頃のお話を書いてみたくなりました。(本当は「時々メモ」は、仕事関係の話だけのつもりだったんですけど・・・)

 私が小学生だった頃、うちで、テルという子犬を飼っていた。
どこかでもらったのか、それとも拾ったのか、くわしい事はわからない。
 テルは雑種の子犬だった。鼻の先が少し黒くて、他は茶色で、小さくてコロコロしていた。私はテルが大好きだった。テルに会いたくて学校から急いで帰った。テルのおでこの皮膚を鼻の方にちょっと押すとおでこと鼻の間にシワができて、その顔が私はとても気に入っていた。「テルテルぼうず」の替え歌をつくって、テルに歌って聞かせたりした。
 ある日のこと、テルをだっこして、Kさんの家に遊びにいった。Kさんは私より学年がひとつ上だった。友だちの友だちだったのだろうか。Kさんと遊んだ事はほとんどなくKさんの事はあまり知らなかった。どういう訳で遊びに行く事になったのかは記憶がない。
 Kさんの家の玄関にテルを置き、私はKさんと遊んでいた。しばらくすると、「犬が車にはねられた!」という声が聞こえた。私は外に飛び出した。Kさんの家は、大きな通りに面していて、玄関をあけると目の前は国道だった。その道の端っこにテルが横たわっていた。急いでテルのところに行った。テルは身体のどこにも傷は無かったが、口の中から少し血が出ていた。テルは死んでいた。私は大きな声で泣いた。泣きながら、いつもしていたように、テルのおでこの皮膚を鼻の方に押してシワをつくった。テルはいつものかわいい顔になった。私は大声で泣き続けた。「Kさんのお兄さんが玄関を開けた時、テルが外に飛び出した」という事を誰かが話しているのが聞こえた。
 Kさんのおばさんが、「ごめんね」といった。そしておばさんは、テルを布で包んでくれた。赤ちゃんのおくるみのように、テルの顔をだして、胴体をおばさんはていねいに包んだ。おばさんは、何回も「ごめんね」といった。それは、私に言っているようにも、テルにいっているようにも聞こえた。そして、おばさんは赤ちゃんを抱くように、両腕で包みこむように、テルを抱いた。私は子供ながらも、悪夢のまっただ中にいて、この時のおばさんの行動がいまでも記憶に残っている。
 おばさんは、テルを抱いて私をうちまで送っていってくれた。私はおばさんの服のすそを握って大声で泣き続けていた。子供の私の歩調にあわせて、20分程歩く間おばさんはずっと、小さな声でテルに「お経」を唱えつづけていた。

 おばさん、ありがとうございました。今もお元気でいらっしゃいますか。私は、あの時のおばさんの年を越えました。おばさんの顔も覚えていません。テルが死んだ悲しい記憶とともに、あの時のおばさんの、子供心にしみこむような優しさを時々思い出します。


02・5・6 肩凝り

 マウスはキーボードの右横(右ききの人の場合)で使われる事が多いと思いますが、私は肩凝りがひどいので、それだと長時間作業できません。自分の身体の右真横にパソコン机と同じ高さの小さいテーブルを置いて、身体の右脇の位置でマウスを使っています。このテーブルは、ひじから指の先までが、しっかりおさまるサイズだという事と、マウスを使う時、肩と腕の重みをテーブルに乗せてしまい、なるべく肩を脱力しているという事がポイントでしょうか。この方法だと肩への負担がだいぶ軽減されます。(あくまで、「私の場合」ですが・・・)


02・5・1 「頸腕症」

 しばらく前のお話になりますが、長い間「頸腕症」に悩まされていました。肩も背中も頸も、鉛の板でも入っているかのように重く、痛く、とても辛いものでした。頭が真直ぐに頸の上にのっている時はいいのですが、頭を少し前に倒すと、頸が頭の重みを支えられないのです。ひどい時には床に落とした物を拾う時にも左手で頭の重さを支えながら拾うという状態でした。病院にも通いました。リハビリの体操をやったり、首を機械で上の方に持ち上げる「牽引」というのもやりました。また背中全体を「ホットパック」で暖めるというのもやりました。水泳がいいと勧められたので水泳もやりました。幸か不幸か、それまで泳ぐ事ができなかったのに、泳げるようになったんです。
 水泳もホットパックも確かに一時的にはよかったのですが、仕事をしながらでは直るのは難しく、良くなる事はありませんでした。(こんな風に書きますと、そんなに仕事をしたのか・・という感じですが、個人差なのですね。同じ仕事をしても、肩凝りも知らないという人も何人もいました)
 仕事をやめる訳にはいきませんので、いろいろと試行錯誤しながら対策を考えた結果、天井からヒモを吊るしてヒモの先にタオルを輪にしたのを取り付けて、そのタオルの輪におでこをのせて頭の重みを支えるという方法にしたのです。「画家」の知人が私の知らない間にその姿をスケッチし、すてきな水彩画に仕上げてくれました。うれしいやら、恥ずかしいやら・・・
 今も肩凝り性ではありますが、「頸腕症」ではありません。幸か不幸か、それだけ手で描く仕事が少なくなったのです。


02・4・27 イタチの毛

 そうそう、筆で思い出しました。
昔、筆職人さんに聞いたお話ですが、その職人さんの所では、材料のイタチの毛は「しっぽ」の状態で、中国から仕入れているそうです。そして、その「しっぽ」を何年も寝かせて、古くなった毛を使うのだそうです。


02・4・26 透明キャップ

 画材屋さんのデザイン筆の売り場では、たいてい筆が立てて売られています。
筆先の保護のために、筆にはたいていプラスチックでできた透明のキャップが付いていますが、画材屋さんによって、このキャップの扱いが実にさまざまだと思います。あるお店では、このキャップが取れないようにセロテープで巻いてあります。しっかり巻きすぎていて、取るのに苦労してしまう程です。又、反対にキャップの管理が厳密でないお店もあります。こういうお店では、キャップが付いていたり、付いていなかったり、そして、筆の穂先がばらばらになっている筆が何本かあり、立てた筆の根元にはキャップが何個かころがっていたりします。

その、筆を買いに行く機会も近頃めっきり少なくなりました。


02・4・25 共通点

 このホームページを持ってしばらくして、「3つの共通点を持つ」という方からメールをいただきました。
 (1) 同じ年に生まれた
 (2) 石井賞のコンテスト受賞が「第7回」で「佳作」
 (3) 同じデザイン学校で学んでいた

  このような偶然、あるのですね。びっくりしました。