文字のデザイン室MOO/時々メモ


「時々書くかもしれないメモ」略称「時々メモ」です。
10・01・16 今も「茶太郎」制作中

茶太郎は一旦完成させたのですが、どうしても気にいらなくて、全面的に創り直しをしています。
漢字が固く、フリースタイルの文字の魅力が感じられないのです。多くの時間を費やして制作しましたが仕方ありません。

また「豆太郎」は仮名、約物、英字、数字、第一水準、第二水準の一部を制作しました。そこまでと思っていましたが、引き続き第二水準の追加分を制作します。
「梅丸」はひらがな、カタカナだけのつもりでしたが、引き続き約物の一部を制作します。

これら、まだまだ目標ははるか遠く、先が見えません。
2週間程前、干支の「牛」が目の前を通り過ぎて行きました。私は変わらず、牛の歩みで頑張ります。



07・07・22
豆太郎・豆の助・梅丸のアウトラインデーター販売休止(再開未定)のお知らせ

誠に勝手ながら、下記の理由からアウトラインデーターの販売を休止させていただきたいと存じます。

(1)文字制作に専念するため
(2)アウトラインデーター販売の体制が手薄になるため

ご利用いただきましたお客様には大変ご迷惑をお掛けいたします。お詫び申し上げますとともに、これまでのご利用、ご登録、誠にありがとうございました。心より御礼申し上げます。


07・01・01 謹賀新年

新年 あけまして おめでとうございます。
昨年中はお世話になりまして、ありがとうございました。

今年は「亥年」なんですね。文字制作が思うように進まず、もたもたしておりますと、干支の動物たちが、どんどん通りすぎてゆきます。
「猪突猛進」の亥君の勢いがまぶしく感じられますが、今年も牛の歩み、亀の歩みで頑張りたいと思います。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。


06・09・13 描き文字見本の本

(1980年9月1日発行。使いやすさを考慮し、背は軽い糊づけで、ページが離れやすいようになっています。
15人位で描いた600本の描き文字見本が収納されています。現在は販売されておりません)


私は昔、デザイン会社で描き文字の仕事をしていました。その頃、写植の時代ですが、見出しとして使える書体がまだ少なく、描き文字の仕事がたくさんありました。

描き文字は原稿をはじめて見た瞬間、それまでの経験から何かしら沸いてくるイメージがあります。
イメージは自分の経験で得た知識や技量の範囲を越えないので、あくまで私なりのイメージです。

お客さんはお客さんでイメージを持っていない方もいれば、強いイメージを持っている方もいます。そのようなお客さんからは「食欲のわくような字で」とか「力強くも繊細な字で」とか「おもわず旅に出たくなるような字で」「泥くさい字で」などという注文がついたりします。
しかし、それで発注者と描き手のイメージが一致するというのはなかなか難しいことでした。それは発注者と描き手の共通の悩みでもあったのです。

そこで、私が所属していたデザイン会社では「描き文字見本の本」を作る事になりました。1980年の事です。
本には明朝体・ゴシック体・袋文字・装飾文字・ペン文字・筆文字など計600本の描き文字見本がおさめられています。書体には番号がふってあり、お客さんは番号でイメージに近いものを指定します。これによって、イメージが共有しやすくなりました。

ところが、この本をお客さんに使ってもらっているうちに別の悩みが出て来ました。描き文字見本の本を効果的に使ってくれるお客さんばかりではないのです。
それまで強いイメージをもたず描き手のイメージで自由に描かせてくれていたお客さんまでこの本を使うようになり描き手の自由度がぐっと狭くなりました。例えば楽しい内容のタイトルなのに楽しくない書体を指定されたり、画数の少ない かな文字でこそ活きる書体なのに原稿は漢字ばかりだったりといった事が出て来ました。

楽しい内容のタイトルを楽しい書体で描きたい描き手は楽しくない書体を使うという制約の中で楽しさがなかなか出せないという新たな悩みをかかえる事になった本でもありました。


06・08・10 夏期休業日のお知らせ

暑中お見舞い申し上げます。
8月12日(土)〜8月19日(土)まで夏期休業日とさせていただきます。
どうぞよろしくお願い致します。



06・01・05 新年

新年あけましておめでとうございます。
文字制作、今年も頑張ります。
どうぞよろしくお願い申し上げます。



05・12・30 年末年始の休業日のお知らせ

年末年始の休業日…12月30日〜1月5日

今年1年のご愛顧、誠にありがとうございました。また、HPをごらんいただきましてありがとうございました。厚く御礼申し上げます。振り返ってみれば、今年は文字制作に集中できず、「茶太郎」も遅々として進まずといった1年でした。

来年も「文字のデザイン室MOO」をどうぞよろしくお願い申しあげます。



05・5・17 ヒヨコの思い出

 私が小学生だった頃、4月8日には「花祭り」の行事がにぎやかに行なわれていた。「サーカス小屋」もあったし、いわゆる「見せ物小屋」もあった。また縁日によく出るいろいろな露店もたくさん並んでいた。

ある年、いつものように「花祭り」を見に行った時「見せ物小屋」のそばを通った。すると「蛇喰い女」をやっていると周りの大人たちが話しているのが聞こえた。私は蛇が大の苦手だが、恐いもの見たさで恐る恐る小屋のそばに行ってみた。しかし外から中がのぞけないように杭がうってあり、そこにロープが張ってあった。私はロープのところまで行って、なにげなく杭に手を置こうとしてびっくりし、思わずひっくり返りそうになった。杭の上には三角形をした蛇の頭が置いてあった。

その「花祭り」で毎年私が買うのを楽しみにしているものがあった。それは1羽5円のヒヨコだ。たしか2羽か3羽買ったと思う。おじさんは実に手際よくヒヨコを掴むと、ヒョイヒョイと穴をあけたボ−ル紙の箱にいれてくれた。そのヒヨコを育てるのは父だった。ヒヨコはたいてい寒さが原因で死んでしまうらしいので子供には育てるのが無理だった。父はヒヨコを入れた木箱を電球と湯たんぽで暖めて飼うので、大抵、ヒヨコは無事育ち、りっぱな鶏に成長した。ある年に育った鶏は気性が荒く、子供だった私に、奇声をあげて飛びかかって来たりした。「花祭り」で買って来たのは私だというのに、そんな「恩」も忘れて…

 ヒヨコを買ってきてしばらくは可愛くて毎日せっせと覗くのだが、ヒヨコに白い羽がはえてくるととたんに可愛くなくなりいつの間にかすっかり関心がなくなって、それらの鶏がその後どうしたのかは記憶がない。いつの間にか「とり肉」となり、子供の私のお腹にも納まっていたのだろうか。言うまでもない事だが、縁日で売っているこれらのヒヨコはすべてオスであり、偶然メスが混ざっていたなどという事は一度もない。

 父も、せっかく飼うのなら卵を産むメスがいいと思ったのだろうか。ある年からは縁日のヒヨコではなくメスのヒヨコを飼うようになった。そのヒヨコが成長して始めて卵を産んだ時の感動は今でも忘れる事ができない。嬉しくて嬉しくて…家族みんなで喜んだ。
 その卵を最初にみつけたのは私だった。真っ白で、小さい、丸い、かわいい卵は光り輝いてみえた。

 メスの鶏は5羽〜7羽位いただろうか。毎日貴重な卵を産んでくれた。ある時から、父の発案か鶏小屋の入り口に表を書いた紙を張って、どの鶏が卵を産んだか毎日卵をとるたびに鉛筆で丸印をつけるようになった。鶏はゲージの中で順番に並んでいた。「3番の鶏は3日に2個産む」とか「5番の鶏は一日置きに産む」とか一目でわかるようになっていた。しかし時がたち、卵を産んでくれた感謝すべき鶏も、そのうちだんだん卵を産まなくなってきた。「3番の鶏はもう5日に1個しか産んでない」とか「5番の鶏はもうほとんど産まなくなった」とか。すると父が、朝「とり屋」につれていくのだ。そして、夕方に私か弟が「とり屋」にもらいに行く。「とり屋」のおばさんは「あっ、ちょっと待ってて、もうすぐだから…」とかいってお肉を小間切れにし終えると経木(きょうぎ)に包んで持たせてくれたりした。

 卵はお弁当のおかずになったり、遠足のゆで卵になったり、お肉もおいしく食べたと思います。うちの鶏さんありがとうございました。



05・5・12 小さな池の思い出

 私が小学生だった頃、廊下の脇に父が作った小さな池があった。大きさは、私の記憶では90センチ×70センチ位だろうか。おはぎのような楕円形をしたかわいい池だった。底は平らではなく、おわんのように丸く、子供が魚を飼うのにちょうど良いくらいの深さをしていた。

 この楕円形の小さな池の中で、たくさんの小さな生き物たちが暮らした。金魚すくいですくった金魚、弟が釣ってきたフナ、「ぶったい」(魚を捕る道具の一種)ですくったどじょう、近くのT池で捕まえたカメなどだ。気が向くと麩をちぎって餌として与えたが、気がむく事などめったに無く、それでも小さな生き物たちは元気に暮らしていた。池のまわりに植えてあったささやかな植物から落ちてくる虫などを食べていたのだろう。

 時々ちん入者もいた。カエル、げんごろう、あめんぼ。そして、ある夏の暑い盛り、ヘビが水浴していたこともある。そして、めったに無い事ではあるが、時としてとんでもない大きな生き物がちん入した。それは、廊下から落ちた私であったり、弟であったりした。
池は廊下の脇にあったので、池の中の生き物は、廊下からのぞくとちょうど良かったのだ。

 この池は父が穴を掘り、セメントで丸く固めただけの素朴なもので、水替え装置などはもちろん無い。雨が降ると池からは水があふれ、自然に水替えになっていた。日照りが続いても池が枯れるという事はなく、そのうち雨が降って池は再び満水になった。

 私たち子供がこれらの生き物の世話をする事もなく、生き物たちは自然の中で完全に自立して生きていた。
 私と弟を唯一悩ませたのはカメだった。本当は金魚やフナやどじょうよりもカメに居てほしいのだが、カメは池に入れた次の日にはたいてい居ない。私と弟は何とかカメが居てくれるようにいろいろ工夫をこらしてみるのだが、カメはしっかり逃げていった。ある時、カメの甲羅のフチ(甲羅のフチは家の軒さきのようにちょっと出ている)に穴をあけ、50センチ位の糸を結んで飼おうとした。でもやっぱり次の日、糸は残っていたのだが、カメの姿はなかった。

 私の遠い記憶の中の風景に「小さな池」がある。だから、あれから何十年たった今でも「水槽」ではなく、小さな池が好きだ。ベビーバス(赤ちゃん用のプラスチックのお風呂)位の大きさのプラスチック製の「ひょうたん池」で今も生き物を飼っている。今は近所のTさんの家から7年位前にもらったヒメダカが毎年卵を産み、絶えることなく元気に生きている。昔とちがい保護されて、栄養バランスのとれたメダカ専用の人工餌など食べながら…


05・5・06 

 私には「絵を描く」という習慣がない。一生懸命一枚の絵を描いたのはいつだったろう。
ずっとさかのぼって小学校4年生の頃だろうか。写生の時間に「コスモス」の絵を描いた。
その時、学校の花壇や校庭では子供たちが植えたコスモスが一斉に花開き、あたり一面ピンク色に染まっていた。
 たぶん先生から出されたのだと思う題材が「コスモス」。私はたくさんのコスモスの花の中から一輪のコスモスをみつけ、それを描いた。画用紙いっぱいに描いたコスモスの花ひとつ。
 その時、先生に注意されたことを今も覚えている。「こんなにたくさん咲いているのにどうして一輪なのか。たくさん咲いているコスモスを描きなさい」と。

 一言の誉め言葉もなくいきなりこう言われたので、ちょっと悲しかった。・・・今だったらこう思う。「たくさん咲いているのはわかる。確かに一斉に花開いているところが美しい。でも、私はそのなかでも自分がみつけた一本のコスモスを描きたかったのだ」と。

 その次の日の事だった。朝、いつものように登校した私は教室に1歩入ってびっくりした。教室の正面、黒板と天井の間に、私が描いたコスモスの絵が額に入って飾られていたのだ。その絵は学年が終わるまでそこに飾られていた。

 もうひとつ絵に関わる思い出がある。20年程前の事だろうか。ある絵のグループが主催したスケッチ旅行で福島県に行った事がある。どういう訳か私もそこに居た。

 参加者たちは宿に荷物を置くとさっそく各々自分がキャンパスに収めたい風景を求めて画材を担ぎ散っていった。
 Eさんと私はある池の前に場所を決めた。Eさんはキャンパスに私はスケッチブックに下書きを描き始めた頃、そばに一台のライトバンが止まった。

 中から下りて来た中年の男性は車のうしろのドアを持ち上げた。すると車の中には絵の道具がすでに広げてあった。その人はサッと新聞紙を取り出すと2〜3枚地面に敷き、イーゼルをたて、キャンバスを置き、新聞紙を切って一ケ所をとじた束をイーゼルにひっかけて絵を描き始めた。左手にはパレット、右手にはペイントナイフ1本。車が止まってから絵を描きはじめるまでの慣れた手つき、手際のよさに私とEさんは思わず見とれてしまった。そしてナイフ1本で、下書きもなくキャンバスの上部から下に向って描いていき、キャンバスの下まで来た時には何ともう絵が仕上がっている。全体をながめチョチョッと2〜3箇所手を入れて出来上がり。
 筆は使わずナイフ1本。イーゼルにひっかけてある新聞紙をピッとちぎってはナイフを拭き色を替えていく。ナイフを拭いた汚れた新聞紙片は下に敷いた新聞紙の上に捨ててゆく。

 絵を描き終えるとその人は絵とイーゼルを片付け、下に敷いた新聞を丸めると車に放り込み去っていった。その間、ものの30分位だろうか。

 目の前にある「蓮の葉で覆われたあまり見栄えのしないタダの池」がデフォルメされ、遠近感が強調され、それはそれは美しい見事な風景画に変身していた。
 その人は販売用の絵を描いていたのだろうか。こういうのを職人の名人芸というのだろうか。

私達は目の前の出来事にただただ圧倒されていた。


05・4・24 鉛筆とシャープペンシル

 私はレタリングの下書きにはシャープペンシルを使っていた。もともとは鉛筆を使っていたが、いつの頃からそうなったのだろう。本当は鉛筆が大好きなのだ。手にやさしい木。自然素材はそれだけでも心が安らぐ。そしてあの六角形、転がりにくく、握った時に3本の指の中にぴったりと収まる計算された形状、そして心地よさ。さらに、少し位強めの筆圧でも折れない強さ。シャープペンシルはそのどれもがかなわない。

 小学校の頃、各教室には手動の鉛筆削り機が一つづつ備えられていた。お当番の子はその鉛筆削りの削りカスを捨てるのも役目だったりした。だから、たぶん、そのために、私は鉛筆を手で削る事ができない子だった。子供によっては筆入れの中に「ぼんナイフ」とかいうものを入れていて器用に削る子も居ることはいた。鉛筆を手で削る事が苦手なのはその後も変わる事なく現在に至っている。
 昔、小学校の頃、鉛筆は貴重品だった。そのため鉛筆の両側を削っている子が結構いた。そうすると、片方が折れてもすぐ、反対側にもちかえればいい訳で1本で2本分使えると言う訳だ。そういえば、赤と青が1本の色鉛筆になっているのもある。これも両側を削りクルクルと持ちかえて2色を交互に使い分けできるというものだ。ただ、これは赤と青が同じスピードで減ってくれれば良いのだが、たいてい片方の色が残るのでこれが何となく気分が良くなかったりした。
昔、鉛筆は確かに貴重品だったけど、両側を削るのは好きになれなかった。尖った先端の片方がこちらを向いている事が子供心にちょっと不安だったのだ。

 反対側といえば、鉛筆の後ろに消しゴムがついているのもある。しかしこの消しゴムが使い物にならないくらい消えない。こすると逆に紙が黒く汚れてしまったりする。せっかくのアイデアなのに残念だ。
 鉛筆と消しゴムはセットで使われる。鉛筆があるから消しゴムの存在価値があり、消しゴムがあるから、安心して文字が書ける。失敗してもOK。いくらでもやりなおしがきく。その安心感は「鉛筆&消しゴム」ならではの個性だ。

 私が仕事用具としての鉛筆をシャープペンシルに替えたのは鉛筆は手間がかかりすぎるという事とムダがあるという理由からだ。手間というのは鉛筆を削る手間、ムダというのは最後まで使えないという事。削る手間といっても鉛筆削り機で削るのだからいいようなものだけど、0.5mm位の芯先をいつも保っているのはやはり手間だといえる。ムダというのは、最後どうしても握った時に手の内に入る位の長さは使い残してしまう事。補助ホルダーを使えばもっと使えるけれど、それだと鉛筆削り機で削れない。

 前述の鉛筆の長所を考えれば、これらは「必要なムダ」なのかもしれない。しかし、仕事の道具としてはシャープペンの方が機能的だと思われた。いくら使っても芯の太さはいつも一定。最後の1センチ程度はムダになるけれど…。
 ただし、仕事以外でシャープペンを使う事はほとんどない。やっぱり鉛筆が好きで、また前述の鉛筆の魅力に話は戻ることになる。



05・4・8 目のこと

 紙に墨で文字を描いていた頃、紙の白、墨の黒のコントラストの差からくるストレスにゼットライトの光が加わって目を酷使していました。ライトは始めは100Wの電球を使っていましたが、いつの頃からか60Wになり、その後、30Wになりました。それでも強く、ライトを少し遠ざけたりして調整していました。
 
 今、仕事でメインに使っているパソコンはインターネットにもつながっておらず、文字制作専用です。色を使う事もほとんどありません。見ているのは今でも「白と黒」です。また、そのパソコンはモニターの明るさを使用に耐える極限まで落としています。パソコンの修理屋さんがびっくりしていましたっけ。「えっ、なんでこんなに暗くなっちゃってるんですか?」と。でもそのおかげで長時間、画面に向っても目が疲れる事はあまりないように思います。



05・3・6 叔父さん

 2005年3月6日、静岡県H市で長い事グラフィックデザインの仕事をしていた叔父が永眠した。おじには娘が3人いたが、どの娘も仕事の面では父である叔父の影響を受けずに来た。どういう訳か、姪である私がおじの影響を受けた。
 子供の頃、叔父がみせてくれたレタリングの道具、そして溝引きの技、それは今も目に焼き付いている。叔父がいたから世の中にこういう仕事がある事を知った。

「叔父さん!おじさんが生きている間にお礼を言うの忘れていました。遅くなりました。本当にありがとうございました」

 心より、ご冥福をお祈り致します。



05・1・24 ロット

 一枚のセーターを編む時、当然の事ですが必要な数の毛糸玉を用意します。20個にするか、21個にするか、それとも19個で足りるのか。最初の考えどころです。
 毛糸には色番号がついているので、途中で足りなくなったら同じ番号の毛糸を買い足せばよいのですが、厳密にいうと問題が生じます。色番号の後にはロット番号がついています。つまり、色は同じなのですが、染める釜が違うためほんのわずかですが色の差が生じてしまうのです。毛糸を買い足す頃には同じロット番号のものがお店にない事が多くあります。

 制作中の「茶太郎」も描いた時間の違いによって3種類位のロットのような差を感じています。毛糸のロット差よりもはっきりしたものなので、これを修正する必要がありそうです。

(余談ですが、セーターのロット違いの毛糸は裾や袖口のゴム編み部分に使用します。本体部分と編み方の違う境目があるため、ロットの違いがわからなくなります。又、模様編みのセーターの場合はほとんど問題はありません)



04・12・25 子どもの頃

 子どもの頃、冬はとても寒かった。暖房はやぐらごたつが一つと火鉢だけ。手にはあかぎれ、足にはしもやけがいつも出来ていた。しもやけには焼いたじゃがいもを当てたり、お湯の中でもんだりと大人たちがいろいろためしてくれたけど、結局それは春にならなければ治る事はなかった。

 手袋は親に用意してもらってもすぐに無くした。無くされると困る親は、片方づつだと無くすと思い、毛糸をクサリ編みしたヒモをつけて両手の手袋をつなげたが、それでもやはりすぐ無くした。だから手はいつもかじかんでいた。
 ある冬の日、通っていたお習字教室の子たちと一緒に書道コンテストに行った。
私は手がかじかんでいて墨が擦れず、筆が持てなかった。

 今は冬でも暖かい。
 手がかじかむという感覚も思い出すのがむずかしい。



04・12・8  今年もわずか

 今年も残すところわずかとなりました。
今年のはじめ、年内のうちに「茶太郎」をなんとか形にしたいとこのメモにも書きました。
しかし、ここしばらくの間、何かと雑用に追われ、まだ完成に至っておりません。
なるべく早い完成をめざし、引き続きがんばります。

 風邪が猛威をふるっているようです。皆様、お気をつけてお過ごしください。



04・4・9  溝さしとガラス棒

 長く使った道具のひとつに「溝さし」があります。30センチの竹製のものさしです。何本か使いましたが、今手元にあるのは、一番古くからのものが1本だけです。溝さしの裏側のマジックペンで書いたメモはもう30年も前のものです。
 この溝さしには適度な厚味があり、溝がしっかり掘ってあります。今では、溝の深いものさしは、私の知るかぎり、ほとんどみかけなくなりました。0さんの三角定規のように、この溝さしも年季が入り、すっかり飴色になりました。半分から左側が特に濃い飴色です。

 新しい竹のものさしを水平に置くと真直ぐではなく、目盛りを刻んだ表側が反って、すこし山なりになっていますが、目の前の溝さしは、長いあいだのガラス棒による圧力で反対側に反っています。角という角はすべてとれ、なめらかで、握りやすく、手にやさしい、かけがえのない道具になりました。
 溝がすべりにくくなると溝を磨き、ロウを引き使ったものです。

 セットで使うガラス棒は、玉が片方だけに付いている物、両端に付いている物、また、棒の中が空洞になっているもの、なっていないものがありました。中が空洞になっているガラス棒は軽く、割れにくく私は好きでした。玉の大きさもいろいろで、実際に使ってみると溝さしの溝に合うものと合わないものがありました。玉が小さすぎると溝にハマって滑りにくく、玉が大きすぎるとカーブを描く時溝からはずれてしまうのです。結局、ちょうどいいものが2本ほど今も残っています。

 仕事道具の中でも、一番使用頻度の高かった溝さしとガラス棒。今では出番も少なくなりました。


04・3・31  Oさん

 昔、一緒に仕事をしていたOさんは物を大切にする人でした。仕事道具を入れる箱の中に、他の道具と共にいつも一枚のプラスチックの小さな飴色の三角定規が入っていました。それは子どもの頃、Oさんが使った50年も前の物です。ひらがなで名前が書いてありました。三角定規は50年たっても現役で、大切にされ、働いていました。Oさん、あの三角定規はどうしましたか。今もきっと、あの時のままなのでしょうね。

 Oさんは、きれいな包装紙とか、お菓子の箱や缶など捨てないで取っておく人でした。Oさんは「取っとき魔」私は「捨て魔」(いづれもOさん命名)でしたね。

 私が「小物入れにするのに、何かあき缶はないですか」とOさんの所にいくとOさんは「ほらね。だから取っておけばいつか役にたつんだから・・・」とちょうど、いい具合の物を出してくれましたっけ。「何か、包装紙ありませんか」とか「何か箱とかないですか」とよくもらいに行きましたが、Oさんは大抵の場合「ほらね、必要だったでしょ」と出してくれました。

 Oさんありがとうございました。Oさんのおかげで私は安心して「捨て魔」でいられたのです。



04・2・12   マウス

 今日、旧タイプのmacにつなぐシリアルポート接続のマウスを買いに行きました。「そのタイプですと、この商品のみになります」といって店員さんが出してくれたマウスを今日使ってみたんですが、これが実に大きくて、重たいのです。
 「曙」か「武蔵丸親方」が持ったら、ちょうどいいのではないかと思うようなサイズで、全体の大きさの割に小さめのクリックボタンが先端についていて指を伸ばすのがきついのです。ダブルクリックはさらに大変です。重度の肩コリの私は今日一日で、一層肩がこり、手がだるく重くなりました。

 私が欲しかったのは手の平にスッポリと収まるような、小さくて羽のように軽〜〜いマウスだったんです・・・。



04・1・12 「茶太郎」「風邪」「おいっこ」

 ただいま「茶太郎」を制作しています。今年の内になんとか形になればと思っています。
 紙に描いた原字に基本的に忠実にDATA化するつもりでしたが、実際には、画面上でも文字の形に手を加えています。その事がどういう結果になるのか・・・。もう少し様子をみる事に致します。

 昨年の暮れからお正月にかけ、ひどい風邪をひきました。38度8分の熱が出て、セキと鼻づまりで苦しく、近所の病院の休日診療にかかりました。セキだけが今も残っています。

 お正月、10年会っていなかった、若くして亡くなった弟の子供(おいっこ)が会いに来てくれました。子供だったおいっこが大人になっていました。顔を見たとたん感無量となり、つい涙がぽろぽろ・・・。3日間ほど一緒に過しました。
 これが今年のお正月、楽しかった事です。



03・11・03 かな書体「梅丸」-2

 かな書体「梅丸」ができました。
「豆太郎」「豆の助」ともども「梅丸」をどうぞよろしくお願いいたします。

コロコロ丸く、かわいい文字をイメージして作りました。ご利用をお待ちしております。



03・9・28 かな書体「梅丸」-1

 「茶太郎」の制作中ですが、一時中断して、「梅丸」を先行する事にしました。ひらがな・カタカナだけの書体です。仮名だけのタイトルや商品ロゴ等にお使いいただければ幸いです。なるべく早い完成をめざしています。


03・8・12  折り紙

 近所の子どもに「手裏剣の折り方しってる? 知ってたら教えて」と途中まで折ってあるらしい折り紙を差し出されました。確かむかし息子がまだ幼かった頃、折った記憶がありますがすっかり忘れていました。「ごめんね〜、忘れちゃった〜」と言ったもののどうやって折るのか思い出したくなって来ました。

 それから一週間ほどして、偶然、折り方を知っている知人に会いまして教えてもらいました。その事がきっかけとなり、久しぶりに折り紙を折ってみたくなりました。インターネットで折り紙のHpを探したらありました、ありました、折ってみたくなるものが・・・いろいろと。
 そして、ある作品に眼がとまり、折り図をたよりに折りはじめたのですが、折り図が大雑把すぎて(作者さん、ごめんなさい)難しいパズルを解くようで、さっぱりわからず・・・でもこういう場合やめられないのが性分で、完成図をたよりに試行錯誤。2時間位かかってやっと完成しました。その後もしばらくの時間折り紙にはまりました。

 そのような訳で昨日分の予定の「茶太郎」が出来ませんでした。(厳密ではありませんが、一応「茶太郎」の一日の制作目標らしきものを決めているのですが・・・)


03・7・30 「茶太郎」のData化

 ただいま「茶太郎」の原字をData化しています。スキャナーでとりこみアウトラインを抽出したものにパスの整理を加えつつ文字の乱れを整えています。

 明朝体やゴシック体には「文字のルール」があります。たとえば「田」という字は大きくみえるので外側の四角は他の字より内目に描きます。中心の縦線はセンターですが、中心の横線は錯視分だけ上に描きます。このルールにそって描いているので、同じ手で描くかぎり、同じ字を何度描いてもそんなに大きくちがう事はありません。

 「茶太郎」にはこの「文字のルール」がありません。決まった線が有って無いようなものです。長い間の習慣で、つい文字を整えすぎてしまいそうです。多少のゆがみ、線の曲がり、アキの不均一などを直してしまいそうになります。又ある程度直す必要もあるので、その辺の兼ね合いが課題といったところです。


03・6・27 角 丸

 楕円設計さんの「きちんと角丸」現在販売されていないのですね。「茶太郎」のあとは「豆太郎」の角を丸めた書体を創ろうと思っていたのに、残念です。何人かの書体デザイナーの方々が推薦されていましたので、使うのを楽しみにしていたのですが、まだ入手していませんでした。
 直線だけで構成された角を丸くするのはそんなに難しくないのかもしれません。それでも、単純な円弧ではなく、有機的な角丸を描こうと思ったらチョット大変だと思います。
 エート、文字で思いつくところでは、たとえば渋谷の「渋」など点やハライが7個あるので、それだけでも難しそうな角が21個もあるではありませんか。曲線が2本と直線が1本で構成された「豆太郎」のこれら三角形の角を丸めるのはそのようなツールがなければ難しそうです。
 


03・5・21 茶太郎

「茶太郎」は原字を3000字位描きました。雰囲気が確かに安定してきたと思います。
 でもね〜〜、これだけ描いているうちに「いつの間にかウデがあがり」「形が整って」「あかぬけて」きたのです。(自分でほめてますよ(笑))しかしこれは誉められず・・・。めざしているのは「牧歌的」「素朴」「ぼくとつ」といったものなので・・・。

 「かな」も半分位かきなおしました。今月一杯、これまでの原字を点検して、来月からDATA化の作業をしたかったのですが、ずれこみそうです。どうなることやら・・・



03・5・6 食べたい物は

 5月2日〜3日、近所の病院に1泊入院して、大腸ファイバーの検査を受けました。検査日の2日前、3日前は禁繊維食、前日は検査食です。検査食は3食分が1箱になって市販されていますが、毎度の事なので自己流です。病院でもらった献立のモデル食は、朝の主食が「何もつけないパン」とありましたので、食パンを1枚半とコーヒーにしました。昼のモデル食の主食は「かけうどん」となっていましたが、うどんの買い置きがなかったので、やはり食パン1枚半とコーヒーにしました。夕食は「葛湯」となっていましたが、葛湯はないので、食事ヌキにしました。この頃どっと空腹感が襲ってきました。
 検査当日の朝、前日の空腹感はすっかり無くなっていました。9時に自転車で病院へ。吐き気止めを2錠のんだあと、スポーツドリンク味の下剤を2000cc、一時間位で飲むようにとの指示がありました。毎度の事ながら、これが辛いのです。2000ccというと、一升瓶1本より、もっと多いんですよ。1600ccまで飲みましたが、あとの400ccが飲めなくて、20分時間を延長してもらって、やっと全部飲みました。う〜、当分スポーツドリンクは見たくないです。そして15時から検査。結果はその場で「異常ありません」との診断でした。この結果も嬉しかったのですが、もっと嬉しかったともいえるのは、異常なしなら、夕食がOKという事です。(組織を取った場合は夕食が出ません)「食い意地」が張っている自分を再認識(笑)。そして18時。24時間ぶりの待望の食事です。カラカラと病棟に夕食が運ばれる音が何と快く響いてきた事でしょう(笑)。

 少し前になりますが、テレビで「人生の一番最後に食べたいものは?」というのをやってました。映画監督のYさんは、最後に食べたいものは「炊きたての白い御飯に生卵をかけてフーフー言いながら食べたい」と言っていました。「食えなかった時に一番あこがれた食べ物」だそうです。知人のYさんは「白い御飯に白い砂糖をかけて食べたい」そうです。Yさんは戦争中、ある時、配給でお砂糖が手に入ったそうです。手元に少しお米がありました。もったいなかったけど母が「もしかすると、もう死んでしまうかもしれないから」と、御飯を炊いて、白いお砂糖をかけてくれたそうです。「これまで、85年の人生の中で一番うまかった食べ物」だそうです。
 私の場合は・・・ぜったいコレというものはありませんが、そうですね〜「お汁粉」を一杯食べられたら嬉しいです。「お汁粉」は小さい頃、私の誕生日に母が作ってくれた食べ物です・・・・。
 皆さんが最後に食べたい物は何ですか。



03・3・31 

 お元気ですか?
桜が咲きはじめました。近所のけやきの樹にカラスが巣作りを始めています。けやきの樹は冬、葉をおとしたままなので、巣作りの様子がよく見えます。たくさんある枝の中ほどの、いい感じの所に小枝やハンガーが集めてあります。見れば、わが家のピンクの針金ハンガーもちゃんと入っているではありませんか。(先日、洗濯干し場から突然消えた物です)でも、材料集めも難しいのか、なかなかはかどらない様子です。ときどきハンガーを落としたりもしています。卵を産んで、子育てを始める頃は、けやきの葉も生い茂り、巣はすっかり緑に包まれて、見えなくなる事でしょう。

「茶太郎」は今、漢字の原字を制作中です。1000文字位描いたあたりから、文字の雰囲気が安定してきた感じがします。まだまだ先は長く、完成はいつの頃になるやら・・・。今年中は・・・・・無理そうです。



03・1・22 制作中

 「茶太郎」の原字は白い紙に墨でいきなり直に描いています。骨格からデザインする文字と違って偶然に形ができるという要素もありますので、文字コード表を眺めながら、気分優先で、気が向いた文字から描いています。画数が少ない文字が気が向く傾向にありまして、画数の多い文字がだんだん残ってきました。どうなる事やら・・・


03・1・3 九十九人一首の思い出

 私が小学生だった頃、お正月によく百人一首をして遊んだ。子どもだけでやるのは主に「坊主めくり」だったが、大人と一緒に、札を拾う普通の百人一首もやった。又、二組に別れ、拾う札も二つに分けて勝敗を競う百人一首もやった。それは「源平」という名の遊びだった。二組はお互いに向かいあって自分達の札を見つけやすく、そして拾いやすいように並べる。読み手の読み上げる歌を自分達の札の中から素早く見つけようとするのと同時に相手の札にも目を光らせ、相手側の札を取ると、こちら側のまだ拾っていない札を一枚渡す。そして札が早く無くなった方が勝ちというものだ。大人と子どもが一緒になって夢中になったお正月の楽しい遊びだった。
 絵札を読んで、字札を拾うというのが大人っぽい気がして、私は百人一首が好きだった。そして子ども心に、学校でも教わっていない読み方「いにしへ」を「いにしえ」と読み、「けふ」を「きょう」と読み「にほひ」を「におい」と読める自分が少し嬉しく、それは私の数少ない心の中の小さな誇りだった。

 私は自然に歌を覚え、いつの間にか百首のうちの九十九首を暗記した。私が一番好きだった歌は「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」だった。この札は、いつも前もって探しておいたので、読み手が「いにしえの」といった時にはもう取っていた。だから、この札だけは他の人が取る事はなかった。なぜ、この歌が好きだったかというと、この絵札のお姫様が他のお姫様より美しくみえたからで、歌のもつ意味などはもちろんわからなかった。

 私が小学生の頃、暗記できなかった最後の一首を覚えたのは高校生になってからだった。これは、国語の時間に教科書で学んだ。その時、私がこれまで全部知っていると思っていた百人一首が、実は九十九首だった事を初めて知った。
 この札が、家にあった百人一首に一枚欠けていたのだ。この一首を知った時の驚きと感激を今でも思い出す。
 
その一首をご紹介します。

「滝のおとは たえて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ」